イスラム国家論−2003年度報告要約

4月例会

報告者:西野 太郎氏(中央大学・院)
題目:「『キルワの慰めの書』の史料的価値――ポルトガル来航記事を中心に――」

西野の報告は、東アフリカの都市キルワに関する年代記『キルワの情報に関する慰めの書』に記載されたポルトガルのキルワ来航記事をポルトガル語諸史料の記録と比較・検討することによって、同年代記の史料的価値の考察を試みたものである。

西野はキルワ史の概略として、現在のタンザニア沿岸部に近接するキルワが、11世紀から15世紀にかけてソファーラ産の金を掌握し、西アジアに輸出して繁栄を享受していたものの、1500年のポルトガルの来航により、キルワの政治的・経済的状況は大きく変容することとなったと述べ、次いで上記年代記が、9世紀中葉から16世紀初頭のポルトガル来航期までのキルワ王統史を記した著者不明の抄本であると説明した。

上記年代記に記されたポルトガルのキルワ来航に関する記事を詳細に検討した西野は、同年代記にはキルワの経済的状況に関する記述が一切ないこと、そしてポルトガル人に対してキルワが抵抗を試みたことについて同年代記が意図的に強調していることを指摘し、さらにポルトガル語史料の分析からポルトガルのキルワ来航の目的が金の獲得にあったと結論付けた。

しかし、上記年代記のポルトガル来航記事がキルワの歴史を検討するうえでどれだけ有効性を持ち得るのかという点については言及されず、やや不満の残る報告であった。

西野は今後、上記年代記の校訂と訳注を考えて、研究してゆきたいとのことである。アラビア語史料とポルトガル語史料との併用による本格的なキルワ史研究の進展が期待される。(文責 栗山保之)

5月例会

報告者:長谷部圭彦氏(東京大学・院)
題目:19世紀オスマン帝国における教育改革と公教育法の制定

本報告は、1869年にオスマン帝国のもとで公布された体系的・包括的な教育行政法規である公教育法を、同法制定過程の詳細な分析を通じて再評価したものである。

長谷部氏は、官報、年鑑などの一次史料を駆使し、これまで十分に注目されなかった同法制定過程や制定理由をつぶさに分析することによって、これまでの同法に対する一般的評価(公教育法は、々駝咳ゞ軌藏匹砲いて、◆嵜癖眦」知識人と非ムスリムが中心となって、フランスからの通牒に基づいて作成された)とは異なった見解を導き出した。氏は、国務院教育局の構成員には、先行研究では指摘されることのなかったウレマー、ギリシア系、ブルガリア系など多様なメンバーが参加していたことを明らかにするとともに、メンバーの役職や経歴などを検討することで、メンバーは、フランスの通牒を参考にしつつも、より主体的に公教育法を作成しうるだけの能力をもち、また実行した可能性が高いことを明らかにした。さらにまた、氏は、フランスの通牒を、フランスの「教育外交政策」の布石とみなすことで、国際関係史的な視点の導入も試みた。

40名近い参加者を前に、長谷部氏は明快な語りで、オスマン帝国近代教育史の研究動向、19世紀の教育改革、公教育法の制定過程、官報やフランスの通牒の内容、そして自身の解釈を説明し、聴衆を惹き付けた。

氏の報告は、多くの史料に裏付けられた手堅いもので、近代オスマン帝国教育研究史における新たなテーマや解釈をもたらす可能性を秘めた意欲的なものであったが、現時点ではいくつかの点で疑問も残った。たとえば、本報告のタイトルは、「19世紀オスマン帝国における教育改革と公教育法の制定」であったが、実際の報告内容は、公教育法の制定過程の再評価であったために、タイトルに示された教育改革と公教育法との関係については明らかにされなかった。

また本報告では、1869年の公教育法の重要性がたびたび強調されたが、同法の制定が、オスマン帝国の教育に与えた影響について触れられなかったことから、同法の「重要性」を充分に納得することができなかった。また、報告のなかで公教育法における「公」はトルコ語の「'Umumiyye」の訳であり、トルコ語「'Umumiyye」は「public」の訳であるとの説明がなされたが、公教育法の制定に携わった当時者たちが、「'Umumiyye」をどのように理解・解釈していたのか、あるいは当時のオスマン帝国の知識人やウレマーが「'Umumiyye」という概念をどのように使用していたのかを明らかにする必要があると感じた。なぜならばオスマン帝国が同法制定において少なからず参考としたであろうフランスの場合は、公教育は、教育をカトリックの支配から解放し、「国民」を形成するという目的があったからである。

会場からも多くの質問やコメントが寄せられ、有益な研究会であったと思う。若い方たちのエネルギーに圧倒されつつ(!)、充実した時間を過ごすことができました。ありがとうございました。(文責:桜井 啓子)

6月例会

報告者:佐々木 紳 氏(東京大学・院)
題目:「オスマン帝国立憲議会構想(1868年)―ナームク・ケマルのウスーリ・メシュヴェレットについて−」

佐々木氏の発表は1860年代から70年代にかけて活躍した新オスマン人、特にその中でも中心的役割を果たしたナームク・ケマルの立憲主義思想を明らかにしようと試みるものである。その際、オスマン帝国改革のため、政府により導入された官制の議会制である「国家評議会」の勅諭を分析し、評議会の性格あるいはその意図を明らかにするとともに、その「評議会」に対するケマルらの評価、批判を検証し、彼が目指そうとした立憲制の姿を浮き彫りにしようとしたものである。

まず氏は、国家評議会開設の勅諭を分析し、「人民の自由と権利の保障」を掲げ国家による議会制導入を図ったものと評議会を位置づける。そしてそこにはオスマン帝国再統合のため「同じ祖国の民」といった理念、つまり「国民化」をめざす意図が明確に意識されていたとみる。これに対しケマルは政府が掲げた「人民の自由の権利」への批判的見解を示す。つまりケマルによれば「自由の権利」には個人の権利(生命・財産・名誉の保証)と政治的権利(参政権)があるが、政府の「人民の自由の権利」には参政権が含まれず、真の「人民の自由の権利」実現のためには、人民の政治参加を保障する代議制が必要と主張する。さらにシャリーアの枠組みを持ち出し代議制の正当性をも主張する。そしてケマルも人民の政治参加はオスマン帝国の一体性を維持するためのものと考え、この点で政府見解との一致が見受けられるとする。

議会設置を帝国の一体性を維持するためという、目的では一致するものの、人民の政治参加という点で政府見解と対立するケマルであるが、彼の具体的な議会制構想、すなわち「ウスーリ・メシュヴェレット」とは形態的にはフランス・モデルの議会制であり、何よりもましてシャリーアに議会制導入の正当性を求めたという点で大きな特徴を持っていた。つまり、彼にとってオスマン帝国とはあくまでも「イスラーム国家としてのオスマン帝国」であり、「オスマン国民」とは多様な集団からなるものの、あくまでもその中心集団はムスリムであり、彼ら主導下の議論の場として、「ウスーリ・メシュヴェレット」は想定されていたと結論付けている。

従来の思想史研究は、個人なり集団の思想の理論的枠組みの解明といった側面に重きを置きがちであったが、佐々木氏はそれらを、"現実"の中で、"現実"とすり合わせて見ていこうと試みており、こうした分析の必要性および有効性が痛感された発表であった。また氏はケマルの中のイスラーム主義者的側面に注目することで、ケマルの思想の建前と本音のような部分が浮き彫りになり、ケマルを考える際の新たな視点を提示してくれたように思われる。(文責 石丸由美)

7月例会

報告者:坂東 和美 氏(慶應義塾大学・院)
題目:「チェルケス・マムルーク朝におけるマムルークと親族関係−タグリー・ビルディーの事例から−」

本報告は、チェルケス・マムルーク朝時代に活躍した一人のマムルーク出身アミールを例にとって、マムルークの「家(household)」の実態の解明を試みたものである。

報告者の坂東は、歴史家イブン・タグリー・ビルディーの父親として知られるマムルーク・アミール、タグリー・ビルディーの血縁および婚姻関係に関する情報を、年代記、人名辞典の記述の中から拾い出して検討し、特に婚姻関係については、それぞれの婚姻事例における配偶者選択の政治的・社会的要因を分析した。またタグリー・ビルディーが2代にわたって仕えたスルタン・バルクーク、ファラジュ一家の婚姻事例を整理し、タグリー・ビルディーの娘とスルタン・ファラジュとの婚姻に見られる政治的背景を検討した。

坂東のねらいは、既存のマムルーク体制論を批判し、マムルーク朝支配構造に対する新たな分析視点を提案するものである。すなわち従来、世襲を禁じた「一代限りの貴族制」による支配であると見なされてきたマムルーク朝の支配構造を、血縁・婚姻を中心とするアミールの「家」という観点からとらえ直そうとするものであり、このような観点は定説を批判する上で一定の有効性を持つものと思われる。

しかし、参加者からの質疑では、「家」という集団のとらえ方をめぐって質問が集中した。例えば、マムルークの「家」における「家長」の存在や相続のされ方について不明瞭である点、「家」という集団を親族・姻族に限定し、非血縁関係者の成員についての分析を捨象してしまっている点、などである。さらに、史料中から抽出された用語ではない「家」という語を分析の中心に据えているが、当時の支配エリートを「家」という語でくくることはそもそも妥当なのか、という指摘も見られた。

再検討を要する点もあるが、マムルーク朝支配エリート、特に一アミールに関するこれほど詳細な個別データを提供した研究は類例がなく、当時の支配エリートの政治的・社会的な関係性の一端を明らかにするという点で、評価に値しよう。坂東自身が今後の展望としてあげている、文書を用いた経済面での「家」の結合の分析を期待したい。(文責・中町信孝)

9月例会

報告者:杉山 隆一 氏(慶應義塾大・院)
題目:「ティムール朝の支配におけるモンゴル的伝統の再検討−オグランたちの活動を中心に−」

10月例会

報告者:吉村 武典 氏(早稲田大・院)
題目:「バフリー・マムルーク朝時代における水利事業−ナースィル・ムハンマド第三期治世を中心に−」

11月例会

報告者:木村 暁 氏(東大・院)
題目:「アミールとバハーウッディーン−マンギト朝期ブハラの統治者と守護聖者−」

今月の例会では、ブハラのマンギト朝期(1756-1920)における統治者と聖者バハーウッディーン廟との関係について考察を試みる報告がなされた。

 報告者は、年代記と外国人旅行者による旅行記の記述をもとに18−19世紀のマンギト朝君主とバハーウッディーン廟との関係の具体相を抽出することにより、マンギト朝支配にとってのこの聖者廟の機能、行政機構に占める位置を検討し、政治権力と聖者廟の結合のありようについて明らかにしようとした。

 本報告によれば、それ以前のシャイバーン朝、アシュタルハン朝時代から支配者の埋葬地として興隆していたバハーウッディーン廟は、マンギト朝時代に支配者による出征前の参詣や政治的示威行動の場として政治的機能が付与されるようになり、支配者が歴代君主の墓への参詣やワクフ設定をすることでこの聖者廟は政治権力継承を正当化する場としての新たな機能を持つにいたった。さらに、バハーウッディーン廟のワクフを管理する特定の聖者裔の存在が指摘され、君主が彼らに官位を与えることで聖者廟を行政機構の一端に取り込み、君主自身もワクフの管財にかかわることにより彼らを統制していたことが指摘された。

 本報告では、数多くの資料を利用して君主と聖者廟の関係についての具体例が提示されたが、なぜマンギト朝時代になって聖者廟に政治的機能が付与されたかの理由についてあまり検討されなかったので、会場からは当時の中央アジアの政治状況におけるマンギト朝の位置、およびその性格について説明し、その理由についても検討すべきではないかとの声が寄せられた。多くの写本資料を含む複数言語による膨大な資料を渉猟した報告者の努力と能力にはまったく感服させられるが、これだけの資料をもてしてもなおわからないことが多いという中央アジア史研究の奥深さを改めて痛感させられた。(文責:島田志津夫)

12月例会

報告者:岩坂 将充氏(上智大学・院)
題目:「現代トルコにおける政軍関係の再検討−1960年クーデタの要因分析から−」

1月例会

報告者:藤波 伸嘉氏(東京大学・院)
題目:「アブデュルハミト・ザフラーヴィーの「統一」論−オスマン・アラブ人の「オスマン国民」理念解釈の一事例として−」

2月例会

報告者:伊藤 寛了氏(東京外国語大学・院)
題目:「ズィヤー・ギョカルプの思想におけるイスラーム」

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